はじまりは、北海道のトドだった。28歳。気候変動で磯焼けの進む海で、絶滅に瀕したトドと、共存の道を探す漁師たちにカメラを向けた。地球温暖化と聞いても、都会で育った僕は、正直まったく意識していなかったし、遠い話だと思っていた。でも、漁師さんの話を聞き、自分で海に潜って磯焼けの現状を見たとき、それが「かなり近いところまで来ている」ことを、肌身で感じた。

その現場で、初めて知ったことがある。「撮る」ことと「伝える」ことは、まるで違う、ということだ。商業の世界で、技術は磨いてきた。きれいな映像なら、つくれる。でも、目の前の現実の重さを、そのまま誰かの心に運ぶには、技術だけでは足りない。もっと奥まで行かないと、届かない。環境問題の映像は、前提知識を吹っ飛ばして、事実だけ伝えて終わるものが多い。僕は、消費されない映像を、届くべき人に届く映像を作りたかった。

北海道では、もう一つの現場に出会った。コロナ禍で逼迫する「いのちの電話」。100回かけて、3回しか繋がらない。受話器の向こうで、消えかけている声。バンド・ナイトdeライトの楽曲「生きててくれてありがとう」とともに、僕は映像を制作した。役者やエキストラではなく、実際に人生に思い悩んだ経験を持つ人たちに、出演をお願いした。いじめ、パワハラ、家庭の不和——苦しんだ過去を持つ7人。当事者だからこそ伝えられるメッセージがあると信じて、そっと寄り添い合う姿を描いた。「決してあなたはひとりではない。寄り添ってくれる人が、必ずいる」。

この映像は、DVDとなって小・中学校へ配られ、NHKで特集され、全国に放送された。映像監督として、僕自身の生い立ちを、初めてカメラの前で語った。話しながら、感謝が溢れて、2、3回は泣いた。かつて「どうして僕は生まれたんだろう」と問い続けた自分が、その問いへの答えに、少しだけ近づけた気がした。苦しい経験をした自分だからこそ、同じ思いをしている人へ届く映像を作れる。それに、人生を賭けて取り組みたい——そう思えた、最初の一歩だった。

その予感に引っぱられるように、僕はより遠くの現場へ向かうようになった。その果てが、バングラデシュだった。南東部の街、コックスバザール。ミャンマーから逃れてきたロヒンギャの人々、およそ100万人が暮らす、世界最大級の難民キャンプ。気候変動が、最初に、そして最も過酷に襲いかかる場所のひとつだ。仲間とともに、ひと月、そこに滞在した。

いちばん小さな声は、いちばん遠くにある。
だから、そこまで行かないと、聞こえない。

キャンプで出会ったのは、僕が想像していた「かわいそうな難民」ではなかった。笑い、祈り、明日を願い、必死に生きている、ひとりひとりの人間だった。気候変動が生む海賊、児童労働、革なめし工場で働く子どもたち、13歳で嫁ぐことが決まった少女。カメラを向けるたびに、自分の"わかったつもり"が崩れていく。取材の途中で、僕自身が現地でコロナに倒れた。異国の地で熱にうなされながら、それでも、ファインダーの向こうにいる人たちのことを考えていた。もう、きれいな映像をつくるだけの人には、戻れなくなっていた。

「声なき声を届ける」という言葉が、標語ではなく、"責任"に変わった。この頃から僕は、台風で決壊した街へ、白化するサンゴ礁の海へ、渡り鳥の集まる干潟へと、国内外の現場を歩き続けている。それが、どんな小さな命でも諦めたくない。——名前も知られないひとりの子どもの"いのち"も、僕にとっては、諦めていい理由が、どこにもない命だった。

「あなたの口を開いて、物言えぬ者を弁護し、すべての寄る辺なき者の訴えを弁護せよ。」
— 箴言 31章8節