この記事の要点
- 祈りの中で聞こえた「ジャーナリスト」という言葉から、27歳、愛媛の海と、真冬の北海道へ。
- コロナ禍のいのちの電話と作った映像で、NHKで初めて自分の生い立ちを語った。
- バングラデシュの難民キャンプで、「声なき声を届ける」が標語から“責任”に変わった。
更新
「ジャーナリスト、ジャーナリスト」
2019年の12月、祈りの中で聖書を開いていると、その言葉が聞こえてきた。最初は、まったく意味がわからなかった。笑
僕の人生の中に、ジャーナリストなんて言葉は無かったから。
大人になれた一つの責務として
大人になれる事を、想像していなかった。人が怖くて、怖くてたまらなかった10年の間に、数えきれない人が僕の人生に入ってきてくれた。母のような愛情で叱ってくれた人。父のような愛情で抱きしめてくれた人。本当の兄弟よりも兄弟のような人。
ここまで生きてこられた事だけで、もう十分。だけど、大人になった一つの責務として、この世の中に還元出来る事は何なのか。
2020年の夏、Instagramを通じて、コニーという22歳の大学生に出会った事をきっかけに、その道が少しずつ見えてきた。ジャーナリストの、小西君だ。
最初の取材は、愛媛の海ごみだった
8月、小西君と、愛媛県の瀬戸内海へ。無人島などの、近づきにくい海岸に船で近づいて、ごみを回収している団体の取材だった。

自分たちで、マイクロプラスチックの濾過までさせてもらった。こりゃ、お魚さんたちも、海の動物も死んじゃう。僕たち人間への影響も、計り知れない。
そして12月、真冬の北海道へ向かった。
そして、北海道のトド
27歳。気候変動で磯焼けの進む海で、トドと、共存の道を探す漁師たちにカメラを向けた。マイナス15度の中、トドの撮影で海に潜った。
地球温暖化と聞いても、都会で育った僕は、正直まったく意識していなかったし、遠い話だと思っていた。でも、漁師さんの話を聞いて、自分で潜って磯焼けを見た時、肌身で感じた。「かなり近い所まで来ている」。
「撮る」と「伝える」は、全然違った
その現場で、初めて知った事がある。「撮る」事と「伝える」事は、全然違う。
商業の世界で、技術は磨いてきた。きれいな映像なら、作れる。でも、目の前の現実の重さを、そのまま誰かの心に運ぶには、技術だけでは足りない。もっと奥まで行かないと、届かない。
環境問題の映像は、前提の知識を飛ばして、事実だけ伝えて終わる物が多い。だから僕は、真実を伝える強さではなく、他者の痛みに思いを馳せる、優しいジャーナリズムを選ぶ事にした。消費されない映像を、届くべき人に届く映像を作りたかった。
100回かけて、3回しか繋がらない電話
北海道では、もう一つの現場に出会った。コロナ禍で逼迫する「いのちの電話」。100回かけて、3回しか繋がらない。受話器の向こうで、消えかけている声。
ロックバンド、ナイトdeライトの楽曲「生きててくれてありがとう」と一緒に、映像を作った。役者やエキストラではなく、実際に人生に思い悩んだ経験を持つ人たちに、出演をお願いした。いじめ、パワハラ、家庭の不和。苦しんだ過去を持つ7人。当事者だからこそ伝えられるメッセージがあると信じて、寄り添い合う姿を描いた。
「決してあなたはひとりではない。
寄り添ってくれる人が、必ずいる」
いちばん小さな声は、いちばん遠くにある
2021年3月。初めての、自分の母国以外の国、バングラデシュへ。南東部の街、コックスバザール。ミャンマーから逃れてきたロヒンギャの人々、およそ100万人が暮らす、世界最大級の難民キャンプ。仲間とともに、ひと月、そこに滞在した。
いちばん小さな声は、いちばん遠くにある。
だから、そこまで行かないと、聞こえない。

キャンプで出会ったのは、僕が想像していた「かわいそうな難民」ではなかった。笑い、祈り、明日を願い、必死に生きている、一人ひとりの人間だった。
気候変動が生んだ海賊、児童労働、革なめし工場で働く子どもたち、13歳で嫁ぐ事が決まった少女。カメラを向けるたびに、自分の“わかったつもり”が崩れていく。
入院、そして100万円以上
帰国する頃、現地でコロナに感染して、現地の病院に入院する事になった。異国の地で熱にうなされながら、それでも、ファインダーの向こうにいる人たちの事を考えていた。
入院費も含めて、100万円以上が飛んでいった。仕事のキャンセルも重なって、絶望した。全部、自費で続けてきた取材だった。
生い立ちを、初めてカメラの前で語った

「生きててくれてありがとう」の映像は、DVDになって小・中学校へ配られた。そして、ちょうど僕が帰国した頃、NHKで特集されて、全国に放送された。映像監督としてインタビューを受け、僕自身の生い立ちを、初めてカメラの前で語った。話しながら、感謝が溢れて、2、3回は泣いた。
「どうして僕は生まれたんだろう」と問い続けた自分が、その問いへの答えに、少しだけ近づけた気がした。苦しい経験をした自分だからこそ、同じ思いをしている人へ届く映像が作れる。それに人生を賭けて取り組みたい。そう思えた、最初の一歩だった。
店長の、一言
放送のあと、いつものように取材用の服を見に、アウトドア用品店へ行った。すると、そこの店長が放送を見てくださっていて、声をかけてくださった。
「ジョンさんがそういう活動をしているなら、
是非一緒にやりましょう。」
そこから、そのアウトドア用品のブランドとの契約や、助成を受けての制作が進んでいった。本当に、驚いた。
「声なき声を届ける」が、責任に変わった
もう、きれいな映像を作るだけの人には、戻れなくなっていた。「声なき声を届ける」という言葉が、標語ではなく、責任に変わった。
この頃から、国内外の現場を歩き続けている。台風で被害を受けた街へ。白化するサンゴ礁の海へ。渡り鳥の集まる干潟へ。名前も知られない一人の子どもの命も、僕にとっては、諦めていい理由がどこにも無い命だった。
いつかの僕のように、声をあげられずにいる誰かの隣に、映像が届きますように。
「あなたの口を開いて、物言えぬ者を弁護し、すべての寄る辺なき者の訴えを弁護せよ。」— 箴言 31章8節