はじまりは、北海道のトドだった。28歳。気候変動で磯焼けの進む海で、絶滅に瀕したトドと、共存の道を探す漁師たちにカメラを向けた。そこで初めて、「撮る」ことと「伝える」ことは、まるで違うのだと知った。

商業の現場で、技術は磨いてきた。きれいな映像なら、つくれる。でも、目の前で起きている現実の重さを、そのまま誰かの心に運ぶには、技術だけでは足りない。もっと奥まで行かないと、届かない。その予感に引っぱられるように、僕はカメラを持って、より遠くの現場へ向かうようになった。

その果てが、バングラデシュだった。ロヒンギャ難民キャンプ。気候変動が、最初に、そして最も過酷に襲いかかる場所のひとつ。仲間と三人で、ひと月、そこに滞在した。

いちばん小さな声は、いちばん遠くにある。だから、そこまで行かないと、聞こえない。

キャンプで出会ったのは、僕が想像していた「かわいそうな難民」ではなかった。笑い、祈り、明日を願い、必死に生きている、ひとりひとりの人間だった。カメラを向けるたびに、自分の中の“わかったつもり”が、静かに崩れていく。当事者じゃなければ、わからない――それは、本当だ。でも、「当事者じゃないから」と諦めるのは、違う。せめて、となりに立って、その眼差しを預かることはできる。

取材の途中で、僕自身が現地でコロナに倒れた。滞在は延び、身動きが取れなくなる。異国の地で、熱にうなされながら、それでも、ファインダーの向こうにいる人たちのことを考えていた。あのひと月で、僕の中の何かが、決定的に変わった。もう、きれいな映像をつくるだけの人には、戻れなくなっていた。

ジャーナリストとしての僕は、あの土の上で生まれた。「声なき声を届ける」という言葉が、標語ではなく、“責任”に変わった瞬間だった。

それが、どんな小さな命でも諦めたくない。――遠く離れたキャンプの、名前も知られないひとりの子どもの“いのち”も、僕にとっては、諦めていい理由が、どこにもない命だった。